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私が見ている“世界”は、ひとつに固定された不変のものではありません。
私という存在の内部で起こる化学反応や、心の表層を撫でる感情の風向きひとつで、その姿かたちは劇的に変貌いたします。
それはまるで、ひとつの舞台が幾度も幕を下ろし、同じ場所なのに全く異なる物語を繰り広げるかのようです。
たとえば躁のとき——
世界は絢爛たる祝祭の只中にあります。
街の色彩はかつて見たことのないほど鮮やかに輝き、通り過ぎる人々の笑顔は、あたかも私だけに向けられた祝福の証のように思えます。
陽光は頬を撫でる金糸のように温かく、雨粒すらも、宝石を散りばめた祝砲のように降り注ぐ。
言葉という言葉が、空気に乗って優しく響き、私の心の器を満たしていくのです。
このとき、私は世界と恋に落ちているのかもしれません。
またあるときは鬱のとき——
すべては一転して、無慈悲で冷たい戦場のようになります。
街の喧騒は私を罵倒する大合唱に聞こえ、すれ違う人々の視線は刃のように鋭く突き刺さる。
陽の光は肌を焦がす敵意を帯び、風は耳元で不吉な呪文を囁き続けます。
鮮やかだった景色は色を失い、灰色の靄に覆われ、音は濁り、匂いすらも腐敗の気配を孕む。
このとき、私は世界に嫌われ、追放された亡命者のように、ただ布団で蹲りながら息を潜めて過ごすしかないのです。
そして——躁でも鬱でもない、いわゆる“フラット”な時期。
そこでは、世界は過剰な輝きも暗鬱な影も帯びず、ただ静かに、ありのままに存在しています。
雲は雲として流れ、道端の草は草として揺れる。
何も突出した感情は生まれず、感覚は透明な水のように澄んでいる。
時折、その平穏を退屈と呼びたくなる瞬間もありますが、それでも、この安定が、安寧が、どれほど貴重なものであるかを、私は知っています。
同じ街、同じ空、同じ人々であっても——私の内側が変われば、世界もまた姿を変えます。
世界は客観的に固定された構造物ではなく、私たち一人ひとりがかける“フィルター”を通して、その姿を変幻自在に映し出すのです。
ですから、いま現在、世界が酷く歪み、無慈悲で冷酷にしか見えない方へお伝えしたいことがあります。
状況や病状、あるいはほんの小さなきっかけ——誰かの一言や、季節の移ろい、空気の匂い。
そうしたわずかな変化だけで、世界の見え方は驚くほど大きく塗り替わる可能性があるのです。
どうか覚えていてください。
いま見えている景色がすべてではありません。
絶望も祝福も、どちらも永遠には続かないのです。
変わり続ける世界の中で、皆様が少しでも息をしやすい瞬間を、必ず迎えられますように。
お読みくださりありがとうございました。
此ノ世おわりでした。
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