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自己物語化の副作用

私はしばしば、人間という存在を“物語”として眺めてしまいます。
他者の人生はもちろんのこと、自分自身の営みすらも、どこか冷ややかな観客の眼差しで観察してしまうのです。
歓喜も慟哭も、成功も蹉跌も、あたかも分厚い書物の章立てのように並べ替え、意味づけ、編集してしまう。
それは、私にとって長らく「生きるための方法」でありました。

なぜなら、人はしばしば、苦痛に押し潰され、直視に耐えがたい現実のただ中に投げ込まれるからです。
そのとき、物語化は盾であり、鎧であり、呼吸の手段となります。
「これは物語の一場面に過ぎない」「この章は暗いけれど、やがて次の章が訪れるはずだ」——そう言い聞かせることで、私は何とか呼吸を続け、己を崩壊から守ってきました。
観客として舞台を見下ろす視点を得ることは、苦悩に溺れる私にとって、ひとつの浮き輪だったのです。

けれど皆様、この浮き輪には、鋭利な棘が潜んでおります。
人生を過度に物語として客観視するとき、私は私自身の感情の生々しさを失います。
流れる涙さえ「悲劇の演出」として消費し、昂ぶる心拍さえ「物語のクライマックス」として整理してしまう。
その結果、本来なら肉体と精神を震わせるはずの体験が、どこか薄膜を通して観劇しているかのように遠ざかってしまうのです。
舞台の上に立つ役者でありながら、同時に観客席に座り、自分自身に拍手や野次を飛ばす。
そんな二重構造は、滑稽であると同時に、恐ろしくもあります。

物語化は生を救う術であると同時に、生を削ぐ毒にもなります。
「生き延びるための観客席」と「生を謳歌するための舞台」とを往復すること——それは、私の存在の根本に巣食う矛盾です。
私は常にその揺らぎの中で揺さぶられ、観客と役者のあいだを行き来し続けているのです。

ただ、ひとつだけ確かに言えることがあります。
観客の視点から自分を眺めたときの冷徹さも、舞台に立って足掻くときの愚かさも、どちらもまた私という存在の不可欠な一部である、ということです。
むしろ、その二重性こそが人間という生を分厚くし、私たちを単なる歯車や機械ではなく、物語を生きる存在たらしめているのではないでしょうか。

皆様もどうか覚えていてください。
物語化は危険です。けれど同時に、生を支える杖にもなり得ます。
私たちは観客であり、同時に役者でもある。
この矛盾のただ中にこそ、人間という生の厚み、美しさ、そして醜さすらも宿っているのです。


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